HANS
―闇のリフレイン―


夜想曲4 Zimmer

1 サイクロプス


風の闇が静止した瞬間、ハンスはその男の正体を知った。見開かれた目の奥にある邪悪を……。そして、見つめてはならないその縛りの罠を……。
「サイクロプス……!」
だが、気づくのが遅過ぎた。彼は塔の上から落下した。
「風が……!」
流れを失った風は、彼を包んではくれなかった。視界の隅に映る十字架は、いつも見掛けたチャペルのそれだ。そこには知り合いもいた。この街には、彼の知る多くの知人が暮らしている。そして、誰よりも大切な人が……。
「美樹……」
守らなければならないその人の名を呟く。そして、その声を、ピアノの音を耳の奥で聞いた。が、何も考える余裕などなかった。間もなく、彼の意識は暗い闇の底に沈んだ。


「今日は一番上手く出来た」
美樹は朝食の準備をしていた。ウサギ型に切ったリンゴを皿に置いて、彼女は満足した。これを見たらきっとハンスは喜んでくれるだろう。自分一人だったらしないようなことでも、彼のためになら手間も掛けられた。ハンスはちょっとしたことでも、子どものように喜んでくれた。始めはそんな彼の反応に抵抗も感じた。が、最近になって、そんな彼を見つめる自分の中に幸福が潜んでいることを発見して驚いた。

――美樹と早く結婚出来ますように!

正月に実家に帰った時、初詣で小さいだるまを一つ買った。願い事を決めて片目を入れ、成就したらもう片方の目を入れるのだと説明すると、彼は早速マジックで片目を塗った。丸い瞑らな瞳と、白いままの瞳の空白が少し怖いと彼は言った。

――このままでは可哀想です。だから、早く両目を書いてあげたいです

それはつまり、早く結婚したいと暗にほのめかしているのだと、彼女にもわかっていた。

――少し考えさせて

彼女はハンスが日本へ来た時、空港で言ったのと同じ言葉を口にした。

――あなたがいてくれると、すごくうれしい。でも、お願い。もう少しだけじっくりと考えてみたいの

引いたおみくじは凶だった。でも、それは必ずしも悪い意味ばかりではないのだと彼に説明しながら、美樹は必死に自分にもそう言い聞かせた。そして、二人はそのおみくじを神社の境内にある木の枝に結んだ。他にもたくさんのおみくじが結ばれていた。

――おみくじの木みたいですね

ハンスはそう言って笑った。

――白い蝶の群れみたい……

その群れがやがて空に飛び立って、悪い気を浄化してくれるのかもしれない。そう思うと、心が少し軽くなった。もとから、ハンスはそんなおみくじの結果など気にしていない様だった。
年末にはお餅をつき、除夜の鐘を聞いた。それから、お正月にはおせち料理を食べ、父からお年玉ももらった。そして、美樹の着物姿に、ハンスは見惚れた。書き初めや羽根つき、凧揚げなども体験した。何もかもが初めてで、ハンスは兄のルドルフと共に興味津々で何でもやりたがった。両親も、そんな彼らに日本の文化を体験させようと、いろいろ協力してくれた。

――美樹ちゃん

彼はいつも、少し鼻に掛かった声で甘えるように彼女を呼んだ。

――美樹

ふと、ハンスの声が聞こえたような気がして彼女ははっとした。もう時計は9時を回っている。いつもなら、とっくに帰って来なければならない時間だ。時には気紛れにどこかへ寄って来ることもあったが、基本的にはまっすぐ家に帰って来る。今日は美樹の仕事も忙しくなかった。そんな時には特に早く帰って来て、午前中は彼女に寄り添って過ごす。だが、今日は違っていた。
「まさか、何かあったんじゃ……?」
遠くで鳴る救急車の音が気になった。
「ハンス……」
その時、自宅の電話が鳴った。
「はい。眉村ですけど……」
すると、電話の向こうの男は固い声で言った。
――私は宮坂警察の小林と申しますが、ハンス・ディック・バウアーさんのことで……
相手の言葉に、美樹は思わず絶句した。彼が5階建ての建物の屋上付近から転落し、病院へ搬送されたと言うのだ。
「それで、彼は……ハンスは無事なんですか?」
受話器を持つ手が震える。発見された時には心肺停止状態だったが、蘇生処置を施され、今は宮坂総合病院で治療を受けていると言う。警察では、事故と自殺、両面の可能性があると見て捜査中だと言った。
「そんな……どうして……」
能力者である彼の身に、一体何が起きたのか。単なる事故や自殺などという単純な理由である筈がない。
「きっと敵が現れたんだ。彼よりも能力の高い何者かが……」
彼女は急いでルドルフとジョンに連絡すると、その足で病院に向かった。

ハンスは集中治療室にいて、様々な機械に繋がれて眠っていた。
そこに医師と看護師が入って来た。
「先生! ハンスは……!」
動揺を隠せずに詰め寄る彼女に、医者は淡々と説明した。
できるだけの処置はしたのですが、頭部を強打しておりまして、意識が戻るかどうか……。他にも複数の打撲や胸部の骨折なども見られます。恐らくは建物から落下した衝撃に因るものかと思われます」
「意識が……。でも、命は助かるんですよね?」
「それは……まだ何とも予断の許さない状況です」
医者は難しい顔をしていた。
「そんな……」
白い部屋。白いベッド。銀色の器具や機械。揺らぐことのない光の中で、彼は眠り続けている。
「ハンス……」
美樹は彼の手を取るとやさしく話し掛けた。
「お願い。目を覚まして……。約束したじゃない」

――ずっと君の傍にいるよ。そして、君のことは僕が守る。たとえ、僕の命に代えても……必ず守るから……

しかし、握った彼の手には生気がなかった。蝋のように透けた白い手。
「どうして!」
その手を頬に押し当てると、自然に涙が溢れた。規則的な心拍も、微かに漏れ聞こえる呼気の音も、皆人工的に調整された物だ。そのどれもが生身の彼とは違う。彼はまだ、完全な形で生を繋ぎ留めている訳ではなかった。いつこの世界から逸脱して逝ってしまうかわからない死の淵を彷徨っているのだ。
「ハンス。お願い。戻って来て」

――結婚しよう

彼の積極的なその言葉を、美樹はずっと避けて来た。忙しい仕事をしている時、纏わり付いて来る彼を疎ましく思ったことさえあった。しかし、今はそうした何もかもが愛しくてたまらない。
「いつの間にかわたし、こんなにもあなたのことが好きになってたのね」
治療のためか、今は地毛の黒髪に戻っている。細くて柔らかなその髪を撫でて言う。
「……。いいよ。結婚しても……」
繋がれた管の先にも傷跡が覗く。身体中に点在する傷のことを、彼は気にしていた。現に医者はそれを訝しんだ。看護師でさえも顔を背けた。しかし、彼女はそれを受け入れた。

(卑屈になる必要なんかない。誰が何と言おうと、わたしはあなたが好きよ。どんな人にも傷はある。それが目に見えないだけで……。誰だってほんとは傷だらけの身体を持って必死に足掻きながら生きてる。なのに、それを認めようとしないだけ……。目に見えないものを信じたくないから、目の前にある傷を怖がるの。でも、あなたは堂々としていればいい。だって、それは、あなたが生きて来た証なんだもの)

――結婚しよう

美樹はそっと彼の手を撫でて言う。
「本当はね、すごくうれしかったんだ。でも、あなたのそんな愛情が……。家庭を持つのが恐ろしくて、つい躊躇ってしまったの。だって、前にも一度失敗していて……。もし、今度も駄目だったらとても立ち直れないと思ったから……」

――僕もね。結婚してたんです。1週間だけ……。でも、僕は彼女を守ってやれなかった。だから、君だけは、どんなことをしてでも守る。もう二度と悲しいのはいやだから……

「そうよ。悲しいのはいや……」
彼女はそう呟くと、彼の瞼から伝わった一筋の滴をハンカチで拭いた。
「先生、今、彼が涙を流しました。きっとわたしの声が聞こえたんです。彼にはわかっているんです。きっと何もかもがわかって……」
そう訴えたが、医者はそれは単なる反射に過ぎないと言った。脳波レベルも生命反応もずっと低下していた。とても自らの意志で何かが出来る状態ではないと言うのだ。
「違う。彼にはわかっているのよ」
美樹はベッドで眠る彼に話し掛けた。
「ね? そうでしょう?」
しかし、彼は何も答えてはくれなかった。

「何があった?」
ルドルフが来て訊いた。
「わからない」
美樹が答える。
「警察では、彼が5階から落ちたって……。それで、医者は意識が戻らないかもしれないって言うの」
彼女は苦しそうな表情を浮かべ、絞り出すような声で言った。
「意識が戻らない? だが、こいつは必ず帰って来る。今までだって、何度も死線を潜り抜けて来た。不死鳥のような奴だからな」
ルドルフは、じっと彼女の目を見つめて言った。
「不死鳥……。そうだよね」
美樹はハンカチを握り締めたまま頷く。それからルドルフは主治医に資料を見せて、これまでハンスが受けて来た治療や既往症などについて説明した。それらを見て、医者は信じられないと言った。
「こんな事例は見たことがない。まさしく奇跡だ」
何をもって奇跡だと言うのか、美樹には理解出来なかった。が、一人の人間が生まれ、今こうして生きているということ自体、奇跡以外の何ものでもないのではないか。そして、奇跡は何度でも起きる。今はそれを信じたいと願う。


それから間もなくジョン・マグナムも来た。
「敵が来たんだね」
彼が言った。
「わたし、何も予兆を見出せなかったの」
悲痛な声で彼女は言った。
「もしも、事前に察知することが出来れば、防げたかもしれないのに……。来てくれなかったの。一番知りたかった風は、わたしの所には吹いて来なかった」
「美樹……」
「守れなかったの。一番守りたかった人を……」
彼女は時折吹いて来る風の記憶を文章に書き起こしてしまうという能力を持っていた。だが、それはあくまでも気紛れに吹く風の断片でしかなく、当然、彼女自身がそれを自由に選択することなど出来なかった。ましてや未来に吹く風の予兆を感じることなど不可能だ。それでも、彼女はそう言わずにはいられなかった。

「能力云々の問題じゃない。一人の人間として、君の存在は重要だ。ハンスにとっては特にね」
ジョンが言った。
「彼は生きることを諦めた訳じゃない。ここに来る前、マイケルと現場を見て来たんだ。そこには、彼が生きようとした痕跡があった」
「痕跡?」
「ああ。5階は生存確率ぎりぎりの高さだ。彼は樹木の枝に2度接触を試みている。不自然な折れ方をしている枝が見つかったからね。その緩衝のせいで多少なりとも地面に落下した時の衝撃が緩和した。それは間違いない」
「でも、彼は能力者なのよ」
「最大の謎はそこだ。道路を隔てた宮坂高校で朝、部活動をしていた生徒が、人が落ちたと顧問に告げた。その教師が現場に駆け付け、救急車を呼んだ。その目撃者の話だと他に人影は見なかったそうだ。だが、彼は背中側から落ちたということだ。つまり、自ら飛び降りたのではなく、やむなき事情によって落ちた。だとしたら、誰かに突き落とされた。もしくは何らかの力の干渉に因って弾かれた。あるいは不可抗力による事故なのか。そして、何故彼の能力が発動しなかったのか。そこに他の人物がいなかったのかどうかも含めて、今、詳細に調査しているところだ」

「宮坂といえば、確か能力者がいただろう?」
じっと彼の説明を聞いていたルドルフが口を挟んだ。
「ええ。結城直人。ハンスも接触している人物です。しかし、今回の件では、結城は関与していない。何故なら、彼はその時間、生徒達と共に体育館にいて、ブラスバンド部の指導をしていたからです。そこからでは現場は死角になっていて見えません」
「闇の民の関係は?」
ルドルフが訊いた。
「範囲が広過ぎて今はまだ判然としない。でも、どんな小さなことでもヒントに繋がる。最近、何か変わったことはなかっただろうか? 人でも物でも何でもいい。彼が接触したものをすべて教えて欲しい」
ジョンが言った。

「年末年始には実家に行って、いろいろな物と接触したけど……。特に怪しい人物とか物とかはなかったと思う」
美樹が考えながら言う。ルドルフも同意した。
「昨年、報告している通りだ。吹雪と菘という高校生二人についての情報のみだ。あるいは、アルモスが何か知っているかもしれないが……」
扉の外をちらと見てルドルフが言った。しかし、そこにはただ白い廊下と壁があるだけだ。
「そうだね。訊いてみよう」
ジョンは時間を気にしているようだった。そして、話しながらも、眠っているハンスをじっと見つめている。
「そういえば、去年、編集の増野さんと一緒に来た茅葺庵という大学の先生。彼と接触したあと、ハンスの様子が変だったの。ドイツに帰れと言われたとかで……」
「ドイツに帰れだって? 何故?」
ルドルフが訊いた。
「そこまでは……。でも、ハンスは気にしてたみたい……」
「怪しいな。そいつの周辺を当たってみよう。もしかしたら、そいつも能力者かもしれない」
そうして、二人は調査のため部屋出た。が、美樹はそこから離れることが出来なかった。いつ急変するかわからないと医者から告げられていたからだ。
「ハンス……」


部屋の中は適温に保たれていた。モニターに現れる小さな波形が、唯一彼の生存を示していた。彼の寝顔は幼い子どものようだと、彼女は思った。
「そういえば、ハンスの寝顔って滅多に見たことなかったな」
仕事で疲れ、ベッドの中で話をしているうちに眠くなり、気づけばいつも、彼よりも先に眠ってしまう。そして、朝はハンスの方がずっと早くから起きて基礎トレーニングに出掛ける。すれ違いといえばそうなのだが、基本的に物を書くのは家での作業なので、コミュニケーションは取れている。もっとも、少しの時間でも、美樹が仕事をしていないとわかると、すかさず傍に来てあれこれ話し掛けて来る。一緒にビデオを観たり、ボードゲームをしたりすることもある。そんな日常のすべてが、今は愛しいと思う。
「そうよ。そんな日常こそが彼の望む生活。危険な仕事なんて彼には似合わない。ジョンもルドルフもどうかしてる。彼に危ない仕事をさせるなんて……。それでなくても、彼は繊細で傷付きやすい性格なのよ。その仕事のせいで、これまでずっと酷使されて来た。なのに、この上まだ、彼を辛い目に合わせようとするの? どうして……」

11時過ぎ、また訪問者があった。飴井と川本である。
「美樹……。ハンスの様子はどうだ?」
飴井が訊いた。が、美樹は振り返らずに首を横に振った。
「まだわからないって先生が……」
「そうか……」
肩を落として飴井が言う。
「それで、何かわかったのか? こいつを襲った奴のこと」
一歩下がった所にいた川本が言う。
「いいえ。でも、今ルドとジョンが調査してる」
美樹が答える。
「一平君、何か知ってるの? 今、彼が襲われたって言ったでしょ?」
「いや。特に情報がある訳じゃないよ。ただ、ハンスがこんな風になるなんて考えられないからさ。相当ヤバイ奴に遭遇したに違いないって思ったんだ」

「そうよね。きっと……」
美樹は小さくため息を漏らすと、再び、ハンスの方に視線を戻した。
「わかってたんだ。いつこうなるかわからない危険の中にいるって……。でも、安易に信じ込んでたの。彼なら絶対に大丈夫だって……。それこそ根拠のない自信。甘かったんだよね。やっぱり……。いくら窓ガラスを防弾にしたって、彼が訓練を積んだ能力者だからって、絶対の安全なんてものはどこにもなかったのにね」
「美樹……」
飴井が慰めるようにその手を彼女の肩に置いた。小柄な彼女の肩はその手にすっぽりと収まってしまうほど小さかった。
「きっと大丈夫さ。あれだけおまえに執着してたんだ。何が何でも帰って来るさ、おまえの元に……」
「うん。そうだよね」
ハンスを見つめたまま美樹が言う。飴井は少しだけ寂しそうに頷いた。

「何か俺達に出来ることがあれば言ってくれ」
飴井が言った。
「ううん。今のところは……」
「ところで、朝食はちゃんと食ったのか?」
川本が訊く。
「何か飲み物でも買って来ようか?」
飴井も口を添える。
「いいの。今はまだ何も欲しくない」
美樹は僅かに肩を震わせて言う。背中を向けていたのでその表情は見えなかったが、泣いているに違いなかった。
「あの医者、ちゃんと診てくれてるんだろうな? ちょっと行って詳しいこと訊いて来ようぜ」
飴井の腕を引っ張るように川本がドアの外を示した。
「あ、ああ。そうだな」
飴井もいたたまれなくなってその場を離れた。

病棟のロビーには3つのソファーと自動販売機、それに光触媒の観葉植物の鉢があるきりだった。二人はその中の一つのソファーに腰を下ろした。川本が自動販売機でコーヒーを買って飴井に渡す。
「それにしても、酷いことになったな」
川本が缶を開けて言った。
「ああ。まさかハンスがやられるなんて……」
これまでヨーロッパで数多くの死線を潜り抜けて来た彼がこうもあっさりやられるなどとは想像もつかなかった。風の力が使えなかった。それもまた考え難いことだ。余程の不意打ちを喰らったか。しかし、それならば何故そんな高い建物の上にいたのか。疑問は尽きなかった。

「奴、助かるかな?」
川本が飲み終えた缶をごみ箱に捨てて振り向くと、飴井はまだそれを手にしたままでいた。
「飲まないのか?」
彼は黙ってそれを開け、一口だけ飲むと軽く頭を振って言った。
「助かってくれなきゃ困るさ」
「へえ。そうなのか? 奴が消えてくれれば彼女だっておまえのところに戻って来るんじゃないのか?」
「よせよ、一平。俺達は別に付き合ってた訳じゃない。それに、友人の死を願うなんてどうかしてるぞ」
窘めるように飴井は言った。

「友人? そうじゃないだろ? 奴は単なる仕事仲間だ。それに、奴は犯罪者だ」
「わかってる。だが、今は仲間だ」
「お人好しだな」
「そうかもしれない。だが……」
「俺は、まだ傷が浅いうちに彼女を取り戻すべきだと思うけどね」
「それは俺達が決めることじゃない」
「奴は多分助からないよ。その時には彼女を受け入れる用意をしておいた方がいい」
「一平、まさかおまえ、何か知ってるのか?」
「別に何も……。ただ、俺は思ったことを口にしただけさ」
そう言うとロビーを立ち去ろうとした。飴井もその後を追う。

入れ替わりにやって来た縮れ毛の男が販売機でコーヒーを買った。それを取り出すと一息に飲み干してごみ箱に捨て、手の甲で唇を拭う。
「朝からけったくその悪い連中だぜ」
そう言うと男は抱えていたスケッチブックにペンを走らせた。


昼の1時には美樹の両親も駆け付けて来た。
「一体、何があったんだ?」
父親が訊いた。
「わからない。警察は建物の5階から落ちたって……」
「5階……!」
母親は思わず口元に手を当てた。
「やられたのか? 相手は?」
父の質問に娘は何一つ答えることが出来なかった。
「今、ルドやみんなが情報を集めてるところなの」
「可哀そうに……。痛かったでしょうね」
母がハンスの目に溜まった涙を拭ってくれた。

「それで、どうなんだ?」
父が訊いた。
「2、3日は危険な状態が続くかもしれないって……。それに、もし助かったとしても意識が戻らない可能性が高いって言うの」
「意識が? どういうことだ?」
「頭を強く打っていて、脳に損傷があるそうなの。それで……。でも、ルドが言うには、以前のデータと比べて見なければわからないって……。彼には元から脳の一部に欠損があって、その部位は普通の人とは違う経路で神経が結ばれているからと言うの」
「じゃあ、希望はあるのね?」
母が言った。
「ええ。ハンスはこれまでにも何度も危険な目に合って来たけど、必ず復活して来たのだから、今度もきっと大丈夫だってルドが言ってたの。今はそれを信じるしかないと思う」


2日後、ハンスは危険な状況を脱し、個室に移された。しかし、意識が回復する兆しはまるでなかった。仲間達は頻繁に顔を見せてくれたが、捜査の進展はないようだ。翌日には、宮坂高校の結城と若井も見舞いに訪れた。目撃者の生徒も一緒だ。
「藤沢君、あなたが最初に見つけてくれたんですってね。本当にありがとう。通報が早かったから、きっと彼も命を取り留めることが出来たんだと思うの」
美樹が感謝して言った。
「いえ、おれはただ夢中で……。サッカーの練習中にさり気なく空の方を見上げたら、向かいの建物の屋上から人が落ちるのが見えて……。それで、急いで顧問の若井先生に知らせたんです」
生徒は礼儀正しい態度でその時の様子を的確に伝えた。
「そうなんですよ。この藤沢がいつにない真剣な顔して言うもんだから、急いで確認に行ったんです。そしたら、バウアーさんが倒れていて、心臓が止まってたし、肝が縮む思いでしたよ。それで、急いで学校に戻ってAEDを取って来て救急車を呼んだんです」
若井が手振り身振りを交えて言う。
「本当にありがとうございました。若井先生の適切な判断がなければ、きっと今頃は……」
美樹は涙ぐみながらお礼を言った。
「いえいえ、俺はただ当然のことをしたまでですので、気にしないでください」
若井が照れたように言う。日本に来て間もないハンスにも、こんな知り合いがいて、本当によかったと美樹は思った。

「それで、ハンス先生のご容態は如何なのでしょう?」
結城もショックを隠せないといった表情で訊いた。
「ええ。何とか危険は脱したんですが、まだ意識が……」
美樹は沈痛な面持ちで答えた。つい先ほどにも医者が来て、回復は望めないかもしれないと告げられたばかりだったからだ。
「彼なら、大丈夫ですよ」
若井が明るく自信たっぷりに言った。
「どうしてそう言えるんですか?」
美樹の言葉に若井は力強く頷く。
「だって、おれ、知ってるんですよ。新幹線でも学校でも会ってるし、彼はいい人間です。そう簡単に死んだりしませんって……。ねえ、結城先生、そうですよね?」
「ええ。もちろんです」
結城も頷く。
「ありがとう。わたしも彼を信じることにします」
美樹もようやく少し微笑むことが出来た。

「それで、しつこいようだけど、藤沢君、その時、他に何か見なかったかしら? ううん。それは必ずしも人や物みたいに形ある物でなくてもいいの。影とか、気配とか、どんな小さなことでもいいから思い出してみてくれない?」
彼女は熱心に訊いた。
「それは……。警察や何かにもいろいろ訊かれたんですけど、特には……。ああ、でも、今思うと少しだけ太陽の光が眩しかったかなって……。窓ガラスに反射しているのかと思ってたんですけど、考えてみれば、屋上に窓なんてないし、あれって何だったのかなって……」
「光? それは屋上に見えたのね?」
「はい。ほんの一瞬でしたけど……」
「ありがとう。参考になるわ」
美樹は少年にお礼を言うとお菓子の箱を渡した。
「もし、いやでなかったら、これを持って行って……。父が買って来たのだけれど、食べれないと思うから……」
「あ、ありがとうございます」
藤沢はそれを受け取ると頭を下げた。

それから若井達はすぐに病室を出て行った。結城は一人残って美樹に言った。
「こんなことになるなんて、とても考えられません。彼はプロですから……。それに、僕は個人的に、ピアニストとしての彼を尊敬しています。あの素晴らしい才能をこんなことで失いたくない。何としてでも助かって欲しい。それを強く祈っています」
「結城先生、あなたも能力者なんですよね? ハンスと同じ……」
彼が頷く。
「それなら、何か思い当たることはありませんか? 彼がこんなことになった理由を……」
「幾つかの可能性を考えてみました。あの日は、ブラスバンド部の朝練に付き合っていたのですが、始業時間が近かったので、僕も生徒達と体育館から渡り廊下に出たところでした。そこで生徒達が人が落ちたと言って騒いでいたんです。それで、すぐに僕も現場へ駆けつけました。しかし、そこに闇の風の痕跡は存在していませんでした」
「もし、能力者でないとしたら、一体どんな人物がハンスに傷を負わせるようなことが出来たのでしょう?」
「それは……。僕にもわかりません。ただ、何か得体の知れない大きな力が動いていることだけは感じます。それが何を意味しているのか、果たしてそれを動かしているものが何なのかは、僕にも掴めないのですが……」
「わかりました。ありがとう。また、何か思い出したら知らせてください」
「そうするつもりです。では、僕はこれで……。お大事に」
そう言うと、彼も部屋を出て行った。

「みんながあなたのことを心配してる……。そして、あなたの回復を望んでいるの。だからねえ、お願いよ。目を覚まして……。あなたの好きな物を何でもあげる。それに、ここにはお花が飾れないの。だから、早くおうちに帰って部屋中にいっぱい飾って、お花畑みたいにしようね」
しかし、何を言っても彼は反応しなかった。
「ピアノは……? あなたはいやがるかもしれないけど、わたしは知ってる。ピアノはあなたにとって特別な、かけがえのない物なんだって……。だから、傷つくのよね。だけど、1年前には、それで戻って来てくれたじゃない……」
――ルビー、ピアノは? コンサートはどうするの?
去年、美樹と出会ったばかりの頃にも彼は一度、昏睡状態に陥ったことがあった。そんな彼を深い眠りから呼び戻したのもその言葉だった。
――ピアノ……僕の……すべて……僕の鼓動……クラビーア
美樹は彼の手を両手でしっかり握ると自分の頬に押し当てた。